黑料门

「安全?安心でおいしい」への挑戦

明治グループは1910年代の东京で最初の一歩を踏み出しました。诸外国の知识や品物を取り入れ、その技术水準に追い付こうと、盛んな挑戦が行われていた时代です。「食」の世界においてもそれは同様でした。
「输入品に頼らず、高品质で、栄养価の高い、おいしいお菓子を提供できたら」。
明治グループの歴史は、そんな思いから始まりました。

写真:本社を置いた三菱仲5号館
1916
  • 黑料门?栄养

    明治グループの诞生

    明治グループの诞生は1916年(大正5年)にまでさかのぼります。当時の日本では洋菓子の消費が急拡大していましたが、生産技術の未熟さなどから、調達は欧州からの輸入に頼っていました。

    転机が访れたのは1914年ごろのこと。国际情势の変化から洋菓子の输入がストップします。「今こそ日本产の、上质な洋菓子を作るべきだ」――かくして1916年に东京菓子(株)が诞生しました。创业时には小さな会社でしたが、さらなる発展を见据えれば规模の拡大が必须だと、1917年に同业の大正製菓(株)を吸収合併しました。

    公司として利益を上げるとともに、事业を通して国家社会に贡献し、食品文化の向上に寄与することを忘れてはならないという思いで始动しました。

    写真:創業当時の工場(大久保工場)

    创业当时の工场(大久保工场)。
    製造品目はキャラメル、ビスケット、キャンデーなど

  • 明治製菓の前身、「东京菓子株式会社」设立

1917
  • 明治乳业の前身、「极东炼乳株式会社」设立

1921
  • 黑料门?栄养食品

    练乳「明治メリーミルク」発売

    写真:明治メリーミルク
1923
  • 黑料门?栄养イノベーション食品

    「パトローゲン」発売“成长のための栄养”を考えて

    明治时代初头の日本では、乳製品、とりわけ牛乳に砂糖を加えて煮詰めた加糖练乳は、子どもや病人向けの栄养食材として扱われていました。しかしこれだけでは乳幼児の成长に必要な栄养はとれません。1919年に设立された粮食研究会(现?一般财団法人粮食研究会)ではこの点に着目し、ビタミンやミネラルを添加した调製粉乳を完成させ、「パトローゲン」と名付けて贩売を开始します。

    人々の栄養?黑料门に貢献することを掲げてきた明治は、1932年2月に「パトローゲン」の製造販売権を譲り受け、製造?販売を開始しました。こうして築き上げてきた知見や环境が、のちの粉ミルクの自社開発に活かされたのです。

    写真:パトローゲン

    キャッチコピーは“爱児のための栄养素调合粉乳”。
    开発に関わった粮食研究会の铃木梅太郎博士は、
    ビタミン叠1(オリザニン)の発见者としても知られる

  • グローバル

    海外展开本格化最初は邦人向けから

    1923年、东京菓子(株)は大连、上海の商社を通じて菓子?乳製品の输出贩売を开始します。といっても、当初は主に在留邦人向けの贩売にとどまっていました。本格的な输出を开始するのは1930年代のことで、输出を奨励する国の政策のもと、アジア各国で贩売网を拡大していきました。

    写真:シンガポールで掲出されたメリーミルクの広告

    シンガポールで掲出された
    「メリーミルク」広告

meijiの実は……

笔搁だってパイオニアです

创业期の明治は、今以上に积极的な宣伝?笔搁活动を展开していました。お菓子ならば输入品とどう违うのか、乳製品ならどのような栄养があるのかなどを伝え、手に取ってもらうことが何より重要な时代だったのです。そこで新闻への広告出稿をはじめ、电车内広告での商品绍介、街头宣伝队による笔搁など、人々の目を惹きつけるさまざまな工夫がなされました。
1923年には季刊誌「スヰート」を発刊。ただの宣伝に留まらず、乳製品に含まれる栄养や购买欲を诱う色使いについてのコラム、注目の若手画家や大家による表纸絵、川端康成や小川未明、菊池寛などの人気作家による童话寄稿など読者を楽しませるコンテンツを満载したこの雑誌は、今でいう公司笔搁誌の先駆けとなりました。

写真:季刊誌スヰート

季刊誌「スヰート」(上)と
チョコレート宣伝队(右)

季刊誌「スヰート」

写真:チョコレート宣伝队

チョコレート宣伝队

1924
  • 东京菓子、商号を「明治製菓株式会社」と変更

  • イノベーション食品

    アイスクリーム事业に着手昼は作り、夜は売り

    1924年、东京にアイスクリームの仮工场を开きます。米国で酪农?乳业技术を习得した技师を迎えて、京桥区での试験生产?贩売を开始しました。保管?输送の技术も未発达で、作ったアイスクリームは気温の低い夜间に运んでいた时代。当社でも昼にアイスクリームを作り、夜に売り歩いて贩路を开拓する方法を取っていました。

    写真:アイスクリーム事业に着手した当时のアイスクリーム

    当时のアイスクリーム

1926
  • イノベーション食品

    「明治ミルクチョコレート」発売

    写真:明治ミルクチョコレート

    「明治ミルクチョコレート」

meijiの実は……

「チョコレート」、100年作っています

明治グループの代名词でもある「明治ミルクチョコレート」は、いまから100年近く前、1926年に产声を上げました。

当时の関东は関东大震灾からの復兴を経て、社会に大きな変化が访れていた时期です。人々の需要も大きく変化し、お菓子ではチョコレートの需要が急速に増加しました。これを受けて、当社でも本格的なチョコレート製造に着手。ドイツから装置を取り寄せ、ドイツ人技师の指导のもとに技术を习得して、満を持して自信作「明治ミルクチョコレート」を発表しました。

発売当时のキャッチフレーズは「胁威に値するミルクチョコレート――生まる」。その后何度もレシピやパッケージのリニューアルを繰り返し、宣伝キャッチも见直しながら现在に至っています。社会が求めるチョコレートをどん欲に追求してきた、歴史の集大成ともいえるブランドなのです。

写真:明治ミルクチョコレート発売时の宣伝広告

発売时の宣伝広告

写真:明治ミルクチョコレートの歴代パッケージ

「明治ミルクチョコレート」の歴代パッケージ

1928
  • イノベーション食品

    「明治牛乳」诞生生乳の品质管理をゼロから确立

    日々、牛乳を消费者に届ける「市乳事业」には、练乳以上に高度な品质管理が不可欠です。明治时代の中期までは牧场の近隣で贩売するのが限界でしたが、牛の伝染病流行などを背景に、远隔调达ルートの确保が求められるようになっていきました。

    こうした中、都内での生乳贩売に向けて、馆山(千叶県の南端)から鉄道や汽船で生乳を运ぶルートを确保。両国の工场に低温杀菌処理を行うプラントや自动洗瓶机を导入し、新鲜でおいしい牛乳を、安定して贩売するためのインフラを一つ一つ整えていきました。そして1928年、「明治牛乳」の贩売をスタートしたのです。

    写真:当时の牛乳配达车

    当时の牛乳配达车

    写真:当時の牛乳容器

    最初期は细口だった容器は、
    ほどなくして広口瓶にリニューアルされた

    写真:国内初の牛乳タンクカー

    1935年に导入した
    国内初の牛乳タンクカー

1940
  • 极东炼乳、商号を「明治乳业株式会社」と変更